自然神(自身)との対話の足跡①

武蔵国一宮氷川神社の話です。
昔から御沼に棲んでいた縄文人が、龍神(水の霊)を祀り、自然神と交信する場所として、社を3つ(いまの氷川三社)配置した物語です。
3つの社が一直線上に配置している理由について、個人的に探求をした結果を整理しています。とくに、①3点を結ぶ一直線の精度がなぜにこれほど高いのか、②この一直線がなぜレイライン(夏至と冬至に日が昇り沈む方向)にピッタリと一致しているのか、③武蔵国一宮氷川神社がなぜ、富士山と筑波山を結ぶ直線上とレイラインの交点に位置しているのか、などの素朴な疑問を解いて死にたい(埼玉という土地にもう四半世紀以上棲んでいた証として残しておきたい)という思いで取り組んでいます。

これまでのまとめ記しておきます

縄文人は海産物と山の幸の両方が身近に獲れる敵地に定住を始め、これが「縄文文明」の発祥の地(世界文明の一つとして歴史の教科書を改めるべき真実)となっています。
(私もそうですが)当時から縄文人は日々自然神と交信(対話)しながら、「文化的で健康な最高の生活」をエンジョイし続けています。
残されている文献(古事記、日本書紀、万葉集など)は古来の日本人がその後に移住してきた人と調和的に文明を深耕してきた一方向からの視点を記したものであると思います。それらの文献の編纂時期より遡って日本の中核を確立していた日本人は、その文明の自立性、先進性、普遍性などの理由で、日本という独自国家を成し続けています。
現代日本の中心が江戸時代に拓かれた東京であるとすれば、さいたま(幸霊)は個性のない地域ではなく、間違いなく日本の心と文明を物心両面から支え続けている地域であり、既存の間違った自己認識と歴史認識を修正しないといけないと考えます。

次のような映画の形で残していくのがよいのかもとは思っています。

かつての縄文人の心に迫る真実を、歴史、文学、あるいは映画の形で残すべく、毎日格闘中です。同じ思いを持つ先人たちともつながりはじめています。切磋琢磨することで、作品はオリジナルで普遍的な価値を持つものになると思います。

推敲中の原稿:氷川三社にかかわり残されている疑問

1.氷川女體神社から大宮氷川神社は目視できなかった(昨日、中山神社の森の位置はおおよそ目視確認できたが、大宮氷川神社は見えなかった、見えていたら道路地図なしで歩けると思ったけれど実行不能でした)。昔の人が農耕カレンダーを朝に神社参拝して決めるためには正確な日の出の位置の確認が必要であるがそのためには目視で確認できる地点(目印)が必ず必要となる(そこで、天気の良い日の夜明けに、氷川女體神社から例えば、浅間山などの目印が目視できるかもう一度確かめにいく必要がある)。
2.大宮氷川神社(沸き水が出た蛇の池)がどうして起点(結界)になっているのか(富士山と筑波山を結ぶラインの上にある、縄文の時代に人々が暮らしていた遺跡は、縄文海進の岸辺に沿っておおみやにはたくさんあるが、なぜ大宮氷川神社が神との交信の地点になるのかその必然性がよくわからない)。
3.大宮氷川神社が日本一長い参道を持っているが参道の始まり(一の鳥居)がなぜ最近まで何もなかったさいたま新都心駅北になっているのか

いろいろ不思議に思われることあると思います。リストを作成していっしょに探求していきましょう。リスト完成したら、氷川神社の関係者が親類におられると言っていたユウコさんに託して、「氷川神社を深く知る会」のような機会を催しましょう。さいたまに住む私たちは、次世代に引き継ぐ責任があると思います。

1.について

早朝に氷川女體神社に出向かなくても、氷川女體神社から浅間山山頂(2568m)は目視できないことが計算で求められた。
地球は丸い(局率があるので離れた場所は地平にかくれて見えなくなる)ので計算で距離150km離れた浅間山は氷川女體神社から目視できない事実がわかりました。
ちなみに富士山(標高3776m、距離140km)は氷川女體神社から目視できる計算になります(富士山頂が目視できる海抜ゼロメートルの地域は富士山から半径219kmの範囲となります)。
https://tabizine.jp/2018/07/04/191587/

これチャットGPTに教えてもらったのではないよ。そういえば昔からこんな計算ばかりやっていました私(笑)。

推敲中の原稿:縄文人の季節確認の方法

神社の境内で日の出などを拝む際に季節を確認できていなかったとすれば、他に絶対的な季節確認の方法があったと推測される。

☆自然暦(通説)
ー桜の便り
オオシマザクラの開花で知る、桜餅が作れる時期で知る
ー植物の便り
つくしがスギナになる時期、菜の花が終わり種になる時期

世界の暦(こよみ)が整理されているが日本の自然暦は(上の例のような)何に則って、どのぐらい正確だったのだろう。
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_02/

☆地域ごとに自然暦を自作(必要を満たす有力説)
地域ごとに季節の変化は異なるので、特に農耕に資するような正確な暦(例えば今では地域ごとに稲作ごよみが農協などから提供されている)が必要であっただろう。
何百mものやぐら(ハジゴ説)があれば自力で日の出やシリウスの位置などを観察して確認もできるが…。

☆山の主からの便り
日の出の位置を正確に確認できる山の主などとの交流により季節を知る。山の主とは限らず、別の地域の識者(指揮者)との交流により季節を確認していただろう。

☆巫女などが神と交信、お告げ
これが一番便利であるし、私としてはこれを否定しない。

3.について

江戸時代、氷川神社の参道は御沼に沿って、中山道を上る人が道すがら神社にお参りできるように敷設されたように見えます。

御沼の形は縄文海進が終わった後も、大雨や干ばつで常に変化していたはずです。
江戸時代初期の御沼は、おおよそこのような形であったこと文献で残っています。

jyuuyoukouzoubutu.pdf (minuma-daiyosui-lid.or.jp)

見沼井と見沼代用水の工事について

さいたま市の東の方は、昔、あれ地や沼が広がっており、田に水を引くために、今から390年程前、芝川をせき止めるための土手(八丁)が作られ、広いため井(見沼井)ができていました。

290年ほど前になると、幕府は米を多く作るために、八丁づつみを切り開き、見沼ため井を田に変える計画を立てました。しかし、ため井がなくなると用水にこまる村が多くなるため、幕府の役人、井澤弥惣兵衛は、ため井の代わりの用水を引くことにしました。これが『見沼代用水』の始まりです。

見沼代用水は、今の行田市で利根川から取水し、八丁づつみまで60キロメートルも流れる長い用水です。弥惣兵衛は、この長い見沼代用水を引く工事を、多くの村人の協力で簡単な道具だけを使い、わずか5ヶ月で完成させました。
https://www.minuma-daiyosui-lid.or.jp/syorui/jyuuyoukouzoubutu.pdf

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